旭駅本屋

SNSが普及しきった今日において、人々はなぜブログを使うのであろうか。

創作とネタ切れと

 さて、読者諸兄の皆々様おはこんばんちわ。唐突ですが皆様にお知らせがあります。残念な筆者の残念な大脳新皮質は残念ながらこれ以上の労に耐えることができそうに無く、本日ついにネタ切れを起こしましたことをここにご報告致しません。

  さて、そういうわけで今回のネタは創作にありがちなネタ切れについて述べていきたいと思いまつ。ネタ切れと創作というものは常に切っても切り離せない存在でありまして、このことは著名な月刊漫画雑誌であるまんがタイムきららに掲載されている”ふたりでひとりぐらし”でも言及されているくらい有名なことであります。

 そもそもなぜ人はネタ切れを起こすのでしょうか。一介の物書きの端くれに過ぎぬ小生はネタが切れる程何かを生み出した経験が無い故こればかりは憶測になってしまうのでありますが、どちらかと言えば切れるのはネタではなく気力ではないのかと思う次第であります。皆さん、思い出してみてください。あのマンネリ感漂う新聞の巻末の4コマを、数年に一度は同じネタを錬成するゴールデンタイムのアニメーションを。あれを見ても尚ネタ切れたるネタ切れが起きると思えるでしょうか。私はどう見てもネタ切れどころではなく出がらしレベルでネタを絞り尽くしている気がしてならないわけであります。では何故人はネタ切れを起こしたと錯覚し筆を折ってしまうのでしょうか。というところで、切れるのがネタではなく気力という話に帰結するのであります。

 

 人は何故気力を失うのか。単純な話、それは創作活動というものがどういうものかという本質的な部分に直結するものであります。創作活動は基本的にやりたいからやるものであり、であるからこそ有り余る気力を持ってしてすべてを成し遂げ世に送り放つものなのであります。尤も一部例外はあるでしょうが。まあ、こうやってクソブログに延々文字の羅列を書きなぐる行為や、誰が見るかもわからないイラストを描いたりだとか、捌けるかもわからないのに同人誌を刷って頒布したりだとかしている人は間違いなくその手のたぐいの人民であります。であるからこそ、気力を失う理由はごくごく単純でありまして、自分がやりたいことがなくなったからこそ無くなるのであります。

 創作者の殆どはネタ切れの恐怖と戦っていることでしょう。いつかは自分の中にある何かが消えてなくなってしまうのではないか、自分の限界に直面し、二進も三進もいかなくなってしまうのではないか。そんな実態のない虚像に怯え、実績が積まれれば積まれるほど自重にやられ、やがて閾値を超えると唐突に契約電力を超えたブレーカーが如く気力がストンと落ちるのでありましょう。

 が、そんな瑣末なことにとらわれる必要はないのです。考えても見て下さい、今日までサザエさんで何回正月回が行われたことか。毎年毎年正月なんかやったところで何が面白いのでしょうか、みたいな感想を誰が思うのでしょうか。実を言うと小生は毎年毎年同じような正月を送るのは御免だという人間ではありますが、市井の人々はそんなことはないのです。存分にネタ被りしていきましょう。

 ところで、この話オチが無いですね?どうやって〆ましょう。やっぱオチがない終わりは締りがなくてクソでウンコでセンスが無くてゴミですね。これだから思いつきで書き始めるのはよくない。