旭駅本屋

SNSが普及しきった今日において、人々はなぜブログを使うのであろうか。

オタクは面倒くさくなる生き物である

 世間は狭い。然るにTwitterともなると更にその世間が狭くなるのである。ネットの世界は大海原が如く広いと無条件のうちに思い込んでしまうが、実際のところ自分の見ている海原は恐らく淡海程の大きさが関の山であろう。FFのFFはFFという関係が往々にして存在するそのTwitter世界は、学校をも凌駕しかねないレベルで狭隘な世界なのである。そして読者の多くがTwitterのリンクから閲覧している弊ブログの読者層というのは語るまでもなくネット世界の狭隘なる部分であることは言うまでもない。

 その選ばれし読者諸兄の皆様におかれては、「異世界はスマートフォンとともに。」というタイトルを悪い意味で聞いたことのある人が殆どであろうかと思う。これはあくまでも筆者のツイのTLがそういう風潮だからここに来る酔狂な輩も当然そういう考えなのだろうと過度な一般化をした結果であり、いい意味でそのタイトルを聞いた人を否定するものではないことを一言述べておく。

 

 今回は、その「異世界はスマートフォンとともに。」を軸に論を展開していこうと思う。見ていないから話について行けない?大丈夫、筆者も1話と11話しか観ていないのだから実質観ていないも同じだ。そして軸にして論展開を行うに過ぎず本質はそこではないので見ていないからと行ってリターンするのではなく、あくまでカレーに付いてる福神漬を眺めるくらいの心持ちで受け流して頂きたい次第である。

 

 さて、これはあくまで筆者のTLでのことであるが、「異世界はスマートフォンとともに。」に関して非常に悪辣な意見が述べられている。筆者は1話と11話しか見ていないが、「1クールの初めと終わりしか見てないのに大して話進んでる気がしねぇぞ」という感想が浮かんだので大凡そういうことが非難されているのであろう。日常系と名高いステラのまほうNew Game!ももう少し話進んでた筈やぞ。

 こういう手のアレな感じのアレがアレすると大概起こるのが読者への疑問なり問題の提起なりである。これを見るくらいならアレやこれやと言いまくし立てるのである。確かにあれより視聴の優先度が高そうなアニメはこの世に掃いて捨てるほどあるだろうが、しかしマルチ商法が如く押し付けていくのはどうかと思うものである。実際オタクは押し付けがましい。

 

 唐突ではあるが、ここで少しばかり筆者の昔話をしたいと思う。

 筆者がはじめて視聴した深夜アニメはCLANNADであり、視聴したのは確か12だかの時だったと思う。先述のアニメに比べ内容は高尚であり、素晴らしいものであり、然るにオタクとしては一度は見ておきたい作品であることは筆者がとやかく語るまででもないだろう。しかしこれが最初に視聴する深夜アニメであった場合どうであろうか。正直視聴当時は可愛いおにゃのこが可愛いということが当然のごとく刷り込まれたに過ぎず、内容の高尚さについて思案を巡らせることなどさっぱりなかったのである。然るにそういうことなのである。

 

 今になって単調な作品であると思うことは往々にしてあろうだろう。また、今にしてやっと理解が追いついた作品も往々にしてあろう。別段最初に見る作品がダサいからといって悪いこともないだろう。そこから深みに嵌っていけば、いずれは良い作品に自然と巡り合うことが出来るであろう。しかし良い作品というのも難しいものである。王道と言われる作品を一通り見終わった末にあるのは先鋭的であったり、シュールであったりする作品に対する興味関心であろう。あの「けものフレンズ」も、最終的に評価されたのは王道の展開でこそあったものの、当初人気に火が付いた要因は「ほのぼのとした動物たちの世界に介在する人類の痕跡」という、今までになかった新規性とも言える部分であったように思う。そう、手慣れを掬うには新規性が無ければいけないのである。

 しかし新参者は新規性を新規性として理解できないのである。卒論の新規性が既往研究で既に解明されていて絶望の淵に立たされた阿呆な読者は流石に居ないと信じたいが、そういう事象が平然と起こるのである。ここに、新参者と古参とのものの見方考え方の差が生まれるのである。

 古参は新規性や独創性、シュールさや先鋭的なセンスを求め始める。しかしそれが新参者には理解できない場合が往々にしてあるのである。それはどの分野でも言えることではあるが、それが先鋭化するとかつてのSFのように新参者が入り込めない代物になってしまうのである。

 

 何が言いたいかというと、つまるところステラのまほうはいいぞ。