旭駅本屋

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続・オタクは面倒くさくなる生き物である

 今回の記事は前回の続きであり、前回記事*1を読んでおくことをオススメ致します。しかし、時間のない読者諸兄も多数おられますことを鑑みますと、要約を書き置いておくことが妥当かと考えられる次第であります。よって前回記事を一行で振り返り本論へと入っていくことにしましょう。

 

・よくわかる前回のあらすじ

 ステラのまほうはいいぞ。

 

 さて、前回の記事は大まかに言って「別に初心者のハードル上げて敷居を高くして新参者を遠のけなけなくてもええやん」というものでしたね。初深夜アニメがCLANNADでさっぱり理解が追いつかなかった当時12歳の私を鑑みるに、敷居を高くし、高尚な内容を説くこと程ご新規さんにとって高い難易度はないわけでありまして、そういうことを考えるとオタクがよく言う「これだから新参者は」と言うものは、新陳代謝が促進されないという側面を鑑みるに概して批判されて然るべきものなのであります。

 で、今回何を述べたいかと言いますと、端的に言いましてコンテンツがコンテンツとして認識され始めた時に起こるアレコレについて語っていきたいわけであります。なお、出て来る物事に対し筆者はそのあまりの高尚さと儲*2の厄介さからよく実情を知らぬがまま批判している可能性がなきにしもあらずではあるのですが、市井の人々がそれに対する見方の一つにこういうものがあるくらいに受け流していただければこれ幸いに存じます。

 

 さて、オタクコンテンツというものは今日一般化されつつあり、オタク差別というものが最早過去のものと言われて久しいレベルになっている現状があるものであります。かつて私の通っていた中学校も荒れに荒れ荒れ果てていたと噂だったのにいつの間にかオタクコンテンツが席巻、不良共を駆逐し数多のオタクを排出する底辺校へと変貌を遂げたのであります。そのくらい都市部においてのオタクコンテンツの一般化と言うものは進んできている現実があるわけであります。

 こうもコンテンツが一般化してくると湧いてくるのが古参連中であります。古参は非常に厄介な存在です。おたく差別というオアシスの無い砂漠の中で生きていけるよう過酷な環境にのみ適応できる生命体の成れの果てとも言えるような人民がうようよしているわけであります。オタクというのは概して批評というものが好きです。元々方向性の違う人民がゲットーのごとく社会の一角に虐げられるように隔離された末路に対話による相互理解やら何やらがあった可能性は否めないものはありますが、こと一般化するにつれその当初の意義は自然消滅、雲散霧消するわけであります。しかし、一度批評という味をしめたおたくどもが批評を辞められるかというとそういうわけでもないのです。

 古くからのオタクというものはただでさえ名の通った人民になることが多いものです。それが一般化すれば尚の事であります。一般化すればするほど名は高くなり、その言霊は恭しく扱われるようになるでしょう。しかし恭しく扱われるが故に起こる弊害もあるのであります。

 閉鎖的なコミュニティーで長らくコンテンツを見尽くした物好きの連中の言葉だけが大きくなったところで、それは新参者にとってはどういう効用をもたらすかというと、一言で言えば「取っ付きづらい」という一点に尽きるかと思われます。

 ここで少しばかり別のことの話をしましょう。

 今でこそあのクソ小説に溢れるなろうを始めとした口語体の小説なんてものが世に出回って久しいものでありますが、かつては文語調の小説が主体であったわけであります。しかしその文語調の小説というのも歴史は非常に浅く、現代の小説の形が生まれたのは大凡明治期のことでしょう。かの大都会松山をDisるだけDisった大作を生み出した夏目漱石らはじめとした当時の文豪と呼ばれる方々が生み出してきたものが、現代へと脈々と受け継がれる現代小説の源流となっていることは最早筆者が語るまでもないことでありましょう。

 しかし、当時の夏目漱石に対する印象はどうだったかというと今ほど好意的に受け止められていなかったというのが実情ではないでしょうか。帝大を出てやることが朝日新聞で口語体に近い文体で小説を書くということなのですからそれはまあ推して知るべしでしょう。今で言えば東大院を出てコンプティークラノベを書いているようなものですからそれはそうです。何かをクリエイトしている身からすれば連載出来るだけ有り難いとは思うのですが、スバルビルの新宿の目が如く邪悪な光を放ち我々を監視する社会の目の評価は恐らく違うのでしょう。しかし、そんな小説がいまや持て囃され、ちやほやされ、かつての文豪らの後の後を継いだ人々が寄ってたかってあれはああだこれはこうだと日夜批評を繰り返し、そしてそれらはそこそこ大きめの影響を社会に与えるのであります。

 しかし、我々市井の一般市民はそんな仰々しいことをし始める界隈にいざ飛び込めるでしょうか。小生はノミのようなサイズの心臓と小さな肝を併存しているためとてもじゃないけれどもそこに飛び込む勇気などありゃしません。何ぜ面倒くさそうですし。似たようなものに和服というものもありますね。あれもやれ着付けだのマナーだの何だのと言われ気軽に着れなくなったのが手痛いものです。別に下にシャツ着て下足にブーツ履いても許されるやろ。平成の人間は煩くて困る。しかしそんなことをしようものならどこからともなく着物警察が現れ、やれ着付けはこうだの偉いセンセがどうだのと講釈を垂れるのであります。誠に面倒くさい。

 そういう勢力といいますか、オタクといいますか、ニッチな分野に長けた人民が自分らの狭いコミュニティの中で批評を繰り返し、切磋琢磨し合う。これは本当に素晴らしいことであると筆者は思います。しかし、それを新参者に最初から要求し、これが出来ていなければ駄目だと突き返す。それではジャンルがやせ細っていくだけではないのかと思うものであります。一部の奇っ怪なメイニアばかりが集まるジャンルならそれは多少目を瞑られることでしょう。しかし、一般化して市井の衆目に晒されるような状況に陥ったコンテンツに於いてはこれは良くはない効果をもたらすことになると思わざるをえないのであります。