旭駅本屋

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普通のお話

普通[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。「今回は普通以上の出来だ」「普通の勤め人」「朝は六時に起きるのが普通だ」「目つきが普通でない」

出典:普通(フツウ)とは - コトバンク

 

 普通とは何か。これは生まれの過ちの永遠のテーマと言えよう。例えば、パスタの湯切り用のザルを被る行為、天国にストリップ工場とビール火山があるという事実、麺は神聖な食物である、という認識はごく普通の事柄といえる。何も異常なことはないのだ。それがスパゲッティーモンスター教徒である限りは。そう、普通とはかくも曖昧なものなのである。

 

 普通という名詞は普通明確な対象を伴って用いられることはない。これは普通のことを示すのに対して普通は対象が必要でないと認識されているためであろう。しかし、普通のことが普通であると認識出来ていない人に対して普通とは何か語ったところで何も理解されないとこであろう。何故ならば、その人にとってそれは異常だからである。恐るべきことに、その人はあくまでも普通のことをしたに過ぎず、普通でないと言われることは普通に考えてあり得ないことであるとまで考えているのである。

 普通に考えて、20代で童貞というのはごく普通のことである。女性が生涯を誓った相手に巡り会うまで純潔を保つというのもまた普通のことといえる。普通に考えて、彼氏彼女という関係性は生涯を誓ったものがなるものである。家事は普通は男性であろうが日々やるものであり、普通に考えて残業が常態化するのはおかしいのである。そうでない思考は端的に言って異常であり、その異常性に関して何の疑問を抱くことが無いというのは信じがたい程に非常識的であるといえる。

 という認識をしている普通の人間は数少ない選りすぐりの読者のなかでも一握りだろう。しかし、これは普通のことなのである。少なくとも一部の共同体においては普通なのである。そして多くの場合、このような手法を用いることで、普通という言葉による異常な共同体の異常な風習の正当化が行われていくのである。

 

 賢明なる読者諸兄はもうお気づきであろう。かのように、この世は異常と狂気によって満たされているのである。そして、普通という言葉の異常性について、今一度思慮を巡らせて欲しいものである。ごくごく普通の思考を持ち合わせている筆者としては、普通という言葉の持つ異常性について、より多くの異常者に気がついて貰える日が来ることを願うばかりである。