旭駅本屋

SNSが普及しきった今日において、人々はなぜブログを使うのであろうか。

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 生きるとは何か。

 誰しもあることだろう。己の半生を振り返り、自己の成してきたことが何だったかを問う時が。必ず最後にそれが何の価値を生み出すこともないということに気がつくとしても、何かをトリガーとして人は過去について思いを馳せるのである。未来は酷く不明瞭で、そこにあるのが光か影か頓と見当も付かないものだが、過去はどれだけ陰鬱であれ、どれだけ高揚しているものであれ、嫌になるほど明瞭に見渡せるものである。それが辿ってきた道だからなのか、はたまた見せられてきた光景だからか、その違いはほんの些細なことである。それが果たしてどんなことであろうとも、何がトリガーであろうとも、いかなる理由をこじつけてでも海馬の奥底からサルベージされる記憶というものがあるのである。

 そう言えば、嗅覚が人の記憶と結びついているという話を聞いたことがある。どこかで聞いたという話ではない。私が常日頃通っている精神科で聞いた話だから確かであろう。曰く、喫茶店の香りを嗅ぐと個人経営の喫茶店で談笑した学生時代の様々な事柄を思い出すという。非常に興味深いものだ。私が鼻炎で香りと記憶がリンクしていることに対する判断指標が一切無いことだけが心残りであるが、しかしそれでいてもしばしば過去のことについて目まぐるしく記憶が呼び起こされる時があるということは、恐らく別の部分にリンクが埋め込まれているのだろう。視力が足りない人は聴覚が優れるというのだから、嗅覚が幼い頃から覚束ない人間に他の部分で補う技能が身についていたとしても何ら不思議ではあるまい。

 そう考えた時、自己の記憶を海馬の奥から底引き網漁が如く根こそぎ掘り起こすトリガーとなるのは何なのかということになる。そもそもそんなことを気にしなくても良いのではないかと思うものもあるだろう。しかし、精神的に余裕が出来たからか、或いは余裕が失われたからか、ここのところ過去のことに関して思い起こすことが多くなっているので頭の片隅でふと気になっていたのである。埃臭い部屋の中で香りを切っ掛けに不意に思い出すというのも考えづらい。であるならば、他の部分に共通の因子を見出す必要がある。大凡過去のことについて思いを馳せる時はTwitterを開いている時である。Twitterは情報が滝のように流れてくる。Tweetdeckを開けばそれこそ上から下へ、重力に従い流れる水のように文字の羅列がひっきりなしに流れていくのである。大方そこからすくい上げた一滴が、過去の何気ない日常の一コマに繋がっていくのであろう。

 記憶と文字情報が結びついているとしたら、それ以上幸運でいて不幸なことは無いだろう。何故なら自分が感じている生き辛さの殆どの理由をそこに帰結させることが出来てしまうからだ。私は人の顔と名前を覚えることが苦手である。しかし、顔からどのようなプロフィールなのかを思い出すことは容易に出来る。まるであたかも名前だけ別のディレクトリに格納されているかの如く一向に出てこないのである。文字と記憶とが結びついているのであれば、それはそうなのかもしれない。名前に本質的な意味などはない。あるのは誰が何をしたか、どういう関わり合いか、それが思い出せれば良いだけなのだ。その記憶に関するハイパーリンクのようなものが、ただ名前である人が多勢を占めているだけに過ぎぬ話である。名前にプロフィールがぶら下がっているのであれば、逆にプロフィールに名前がぶら下がっていようが何ら不思議ではない。それは不可逆的なものではなく可逆的なものであり、何なら両者を反転させたところで同定不可能になることはまず無いだろう。しかし、そうは言ったところで世の常の逆ベクトルを生きてしまうと色々と難儀するものである。どれだけそれが可逆的な情報であれ、相手にとって必要なのはディレクトリの中身ではなくただのパスに過ぎぬわけだからだ。そこに齟齬があるからこそ、ただ日々を生きるのにも労することになるのだ。

 幾らその情報に対して当人にとって正しいリンクが存在したところで、相手とアクセス方法が異なるとエラーを吐くことだろう。「Method Not Allowed」と。