旭駅本屋

SNSが普及しきった今日において、人々はなぜブログを使うのであろうか。

続・生まれの過ち人民学

 生まれの過ちとは、即ちメンシェビキの嘆きである――

 

 筆者はコミュ強と思しき市井の人々を見ていて思うことがある。例えばそれが列車内であったとしよう。大凡の人民はスーツに身を包み無言でかつ不機嫌そうな面持ちで端末を手にしていることであろう。しかし人民が複数存在している状況に於いてはその限りではないのだ。恐らく複数人のグループと見られる集団で歓談に花を咲かせああだこうだと下らない話をしていることであろう。この会話を盗み聞きしているとあることに気がつくと思う。そう、会話の内容の殆どが”””気持ち”””ないしは”””感情”””に関してなのである。私はここに、市井の人々の会話に於ける違和感の根源を見出すに至ったのである。

 筆者は常々コミュ強の人々の会話に対して言い様のない違和感を抱いていたのである。大凡愚痴と悪口と噂話と、そこには居ない共同体の一個人を吊し上げて溜飲を下げるような会話ばかりであり、ついて行けないとかそういう次元ではなく、何故こんなことを延々話し合っているのだろうかという疑問と違和感と気味の悪さを感じたものである。それはそういうネガティブな話題だからだろうと思い込んでいたのだが、実際のところ自分が感じていた違和感の根源は内容の雰囲気ではなかったのである。そう、根本的に感情豊かなのである。

 ここで少しばかり生まれの過ち人民について振り返ってみたい。生まれの人民についての一考察は弊ブログでも過去に行っている*1。そこでも触れているが、コミュ障はコミュ障同士では非常に話が弾むのである。しかしこれがコミュ強との会話ともなるとそうはいかなくなるのである。ここからコミュ障とコミュ強はそもそも会話の方法が違う可能性が高いというのが先の記事で触れずに軽く流してしまった部分である。今回はその点に焦点を当ててコミュ障とコミュ強のコミュニケーションの違いについて探っていきたいと思う。

 まず前提として、コミュ強に於ける会話と感情の関係性は、感情表現のいち手段に留まることなく会話の主軸をも担いうるという可能性が高いのである。少なくとも筆者は感情表現の手段として会話を用いることはあるものの、感情を軸として論を展開していくことは稀である。基本的に主軸を担うのは生起した事象についてであり、事象により生起した感情は二の次三の次も良いところの扱いであるのだ。だからこそ大凡会話に於いてやれ好きだ嫌いだの話をすることは稀である。ただしメシは別だ。

 そういう人民からすれば、感情を軸に、そして非常に感情的な語り口で紡がれる会話というものは非常に奇妙に、そしてある種の滑稽さを以て見えてしまうのである。メシの話なら別であるが、仕事の話で感情を軸にした話をし始めると強い違和感を覚えてしまうのである。お前問題は感情ではなく仕事の進め方だろう、と。

 

 ここで一旦少し違う話をしてみたいと思う。

 マンガやイラストを描く場合、キャラクターの感情を表現するのにどういう手法を用いるだろうか。当然表情で描くという手段はある。台詞で補うという方法もある。しかし、本当にそれだけだろうか。背中で語る、なんて言葉もあるくらいなのに、人の感情が表情や台詞以外で表現できないわけがあるだろうか。キャラクターの動きで表現することは出来っこないことだろうか。実際丁寧に踏み込んだ説明をしているイラストの書き方講座なんかだと、キャラクターの動きで感情の表現云々という部分に触れている場合もあったように記憶している。そら背中だけ描いていようが肩を上げると肩を落とすと肩を回すだけで3つも違う感情が表現できるのであるからそこに踏み込んで指南していくのは妥当であろう。

 

 このことを踏まえ、市井のコミュ強の側から我々コミュ障人民を見た場合について考えてみたい。恐らく我々生まれの過ち人民の行動の多くは奇妙に見えることだろう。なんせ国道事務所の掲示板の掲示が剥がれてるのを見てゲラゲラ笑いながら国道事務所に突撃し、公園に設置してある対象年齢3~6歳の遊具で遊び、強硬に炭水化物の摂取を渇望し強引につけ麺屋に進もうとする奴を見て「なんでこんなに行動的(オブラートに包んだ表現)なんだ」と思わない奴は居ないと思う。ちなみにここで出した事例は全て自分が5時間という短い時間の中でやった行動であり*2、かつ自分で振り返ってみてなんだこのキチガイと思った事柄でもある。しかし、このキチガイさからあることが浮き彫りになるのではないかと思う。これはあくまでサンプル数が1であるため一般化し辛いことではあるのだが、感情を行動として表現している可能性があるのである。そして、それは言い換えるのであれば行動のみを感情の共有ツールとして用いている節があるのである。表情と会話によって感情の共有を図っているとみられるコミュ強との大きな違いがここに生まれるのである。

 市井のコミュ強とコミュ障のコミュニケーションの間に挟まる日本海溝より深い溝の原因の一つは、恐らくこの感情共有ツールの相違によるものではないのかと思うものである。主たる感情共有ツールが異なっているのであれば、コミュニケーションが円滑に進むわけがない。だからこそ”””空気が読めない”””だのと言いがかりを付けられ、コミュニケーション障害という烙印を押されるのであろう。

 先の記事でも触れたように、あくまでも生まれの過ち人民はその行動様式がメンシェビキであるが故に生まれの過ちと化してしまった文字通りの生まれの過ちであるのである。コミュニケーション障害だの空気が読めないだのと言われているのはあくまでもそうでない人民がボリシェビキであるが故に生起する事象であり、故に生まれの過ち人民のみが多数集まった場に於いては生まれの過ち人民は絶大なるコミュニケーション能力を発揮していくのではないかと思うものである。