旭駅本屋

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生まれの過ち人民学

 ”生まれの正解”とは何か――

 

 ツイのコミュ障には自称コミュ障が多い。これは持論である。そして、その自称コミュ障の方々には特徴があることに最近気がついたのである。それは、日常生活に於いて、或いは、面接等に於いてどのようなコミュニケーションを取るのがわからないということである。これは、彼らのツイを読んで勝手に推論していることであり、更に言うなれば筆者のことでもある。

 そして、その自称コミュ障の方々とオフ会などで出会うと、ふんだんな語彙力と圧倒的な知識によって見事なまでに会話を続けていくのである。コミュ障とは何だったのか。加えて、参加者の殆どがコミュ障なのでと自分のことを卑下することさえあるのだ。どういうことだ。おかしいではないか。コミュ障が集まったらコミュ力が地を這い誰しも「アッ……アッ……」と碌に口も利けずにツイで会話をし始めるような有様になるのが関の山ではないのか。しかし、むしろコミュ障が集まっているからこそ立てられる仮設というのもあるのではないだろうか。そう、即ちコミュ障同士においてコミュ障はコミュ力が高いという仮設である。

  コミュ障であるならばある程度は思ったことがあるであろう。普段コミュ力コミュ力とか抜かしている生まれの正解コミュ強人民をコミュ障の塊の中に一人だけ放り込んだら、恐らく生まれの正解コミュ強人民は碌なコミュニケーションも取れず敗退するであろうということを。尤も、生まれの正解人民はある程度のコミュニケーションを取れるのかもしれない。しかしそれは違和感のあるコミュニケーションとならざるを得ないであろう。コミュ障とコミュ強の会話は常にチグハグなのである。

 コミュ障とコミュ強はそもそも会話の方法が違うのではないかという仮設を立てることも出来るが、恐らくそこら辺は高尚な社会学やら心理学やら精神医学やらの先生方がやっていらっしゃるであろう。小生は高尚な社会学やら心理学やら精神医学やらを学んでいるわけでもない、ただの理系雑魚学卒に過ぎない存在である。故に、この分野について更に掘り下げていくことは控えるとする。門外漢がアレコレ言ったところで的はずれなことを言うか車輪の再発明をするに過ぎないからである。

 コミュ障であるということに関して、会話の能力に加えて共感能力が低いということも実に説得力を持って語られる代物である。これも筆者としては疑問を抱くものである。共感能力の低さということでよく引き合いに出されるのは相手の言動から相手が何をしたいか全く判別出来ないということである。これは非常に強い説得力を持って語られるが、実際そうなのかとても怪しいと筆者は思っている。もしそれが事実であるのであれば、あのコミュ障モタクの巣窟メロンブックスで狭い通路を譲り合って奥の棚へ前の棚へという移動がこなせるだろうか。ひな壇も碌に作れない、場所も譲れない、一般的にコミュ強とされる市井の人々に対して苛立つ場面は多々あると思う。実際私も「これだから一般人はこまる」とよく思ったものだ。共感能力が高く、コミュ強であるはずの市井の人々が、なんでそんな空気の読めない行動をするのであろうか。実は、コミュ強である筈の市井の人々はコミュ力があるわけではなく、たまたま行動パターンが多数派と同じだったからコミュ力があるように見えているに過ぎないのではないか。筆者はそう思わざるをえない。

 つまるところ、生まれの過ち人民とは偏にメンシェヴィキだから生まれの過ち人民にカテゴライズされているに過ぎず、生まれの正解人民はボリシェヴィキであるがゆえに生まれの正解でいられるに過ぎないということが言えるのではないだろうか。

 そうであるのであれば、生まれの過ちが生まれの過ちたる所以もわかるものである。ボリシェヴィキに生まれなかったのがそもそもの過ちであると言えるからだ。