旭駅本屋

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ファンタジーが社会に受容される理由〈わけ〉

 キミたちはファンタジー作品を観る方だろうか?観る方であろうとなかろうと、創作物に触れていれば嫌でもファンタジーに触れることになるだろう。なぜならば創作のセカイはファンタジーで満たされているからだ。今回は、なぜ創作でファンタジー系の世界観が多用されるのかを考えてみようじゃないか。

  このセカイはどこまで行っても2つの側に別けられる。需要者と 供給者 クリエイター だ。 供給者 クリエイター はセカイに新しい創作物を授け、需要者はそれを追い求める。実にありふれた構図だ。その両者が合わさってはじめて取引が行われる。あくまでもこれは経済の単純なモデルに過ぎないが、 現実 リアル もこのモデルと大差ないごく単純なものだ。そう考えると、ファンタジー系の作品が供給される理由も大きく2つに分けられる。 供給者 クリエイター 側の理由と需要者側の理由だ。需要者側の理由は各々の感性に任せるとして、ここでは 供給者 クリエイター 側の 理由 わけ を探っていこう。

  創作者 クリエイター としてファンタジー作品を描くメリットは何が挙げられるだろうか。自由な世界観だろうか、はたまた物理法則をも超越した存在を容易に描けることだろうか。しかし、世に蔓延るファンタジー系の作品を思い起こして欲しい。中世 欧州 ヨーロッパ のような、汎用なファンタジー世界感という 定石 プロット の上に自分の描きたいキャラクターを載せるような作品が多いことがわかる。そこに 創作者 クリエイター は自由な世界観を求めているだろうか――いや、求めてはいまい――では何を求めているか。矢張りそれは、 現実 リアル をつぶさに観察して描く必要がないという安易さだろう。法も、物理法則も、倫理観も、自分の中で描き出したセカイがそのまま構築できる。これほど楽なものはないだろう。 定石 プロット に当てはめるだけで完成するなら尚の事だ。だからこそ、ファンタジー作品は数多く作られ、物理法則に依拠しない魔法という麻薬が創作で多用される。魔法ほど楽なものはない。何をやろうがこれは魔法のチカラだと言えば済むからだ。推理作家が頭を捻りながらなんとかして考えるトリックの数々も、魔法というチカラを使えばやすやすと薙ぎ払うことが出来る。こんなにも楽なものはないだろう。だからこそ魔法は多用されるのだ。だからこそ、魔法が使えるファンタジー世界がこよなく愛されるのだろう。

  現実 リアル を描くことは非常に難しい。なんてことのない道路標識も、点字ブロックも、 柱上変圧器 トランス も規格は決まっているし、建物や機器類はどうしても法規の制約を受ける。どこまで 現実 リアル 現実感 リアリティ を以って描いたところで、どこかで不自然さの残るものにならざるを得ないことが感覚的に 理解 わか るだろう。なぜなら全てを調べ上げるのは不可能に近いからだ。だからこそ、それらの制約を受けないファンタジーやデフォルメが多様され、創作者に受け入れられるのだろう。なにせそれが一番楽な創作物の創り方だからだ。