旭駅本屋

SNSが普及しきった今日において、人々はなぜブログを使うのであろうか。

RSS

 

みんなのデパート

読者諸兄の皆様は、意味もなく街を歩いたことはあるだろうか。筆者は結構ある。書いていてなんかもったいない気がしてきたが今更な話でもある。
行こうと思った土地の近傍もまあついでだからと徘徊すると、色々な土地で意味もなく街を歩く羽目になったりするのだが、観光地だけを効率的に集鋲しているとあまりそういうムーブメントにもならなさそうな気がしてくる。

 

普段住んでいる街でも普段通ったことのない道に入ると、見たことのない景色が広がっていたりもする。そういう観点でいえば、矢張り行きと帰りを同じ道で通って沿道を眺めておきたいというところはある。見方が変わればまた新しい発見も得られたりもするのだ。

 

 

 

街は変わっていくものである。
来て、見て、歩いてというサイクルを数年おきくらいでやっていくのが多分一番良いんだろうなという思いはありつつ、そんなにしっかりと町に向き合っていられるほどじっとできる性分でもない上に、新たに訪れたい町が山ほどある中ではあまり出来る見込みも無いというものだ。

 

 

色々な町を歩いて、思うことがある。

個人商店の面倒くささである。

あの店はどうだとか、そういう話は余所者にとってはまず手に入らない情報であるし、住んでいても矢張り確りと人間関係を築いていかねば手には入れない話でもあろう。良し悪しは兎も角として、横着をせねばまあまあ使い物になるし、横着をすると大して使い物にならないのが個人商店であると筆者は考えている。今時阿漕なことをする個人商店はたいてい潰れており、八割方善良なおっちゃんやおばちゃんが出てくるのも又事実ではあるが、それはそれとして得手不得手というものはわかるものでもないのでそれはそれなりに博打になってしまうのだ。

 

そう考えてみると、スーパーマーケットや総合スーパーが流行っていたのもわかる話で、低コストである程度のクオリティが担保された品が手に入る店となれば住民からすれば有難い話でしかないわけである。

然し、恐らく総合スーパーが普及するまではある程度のクオリティが担保された商品を手に入れることがまず難しかったのではなかろうか。そういう状況で都市で興ったのがほかでもない百貨店だったのだろう。

百貨店は今ではハイブラントを吹っかけてくる店というイメージであるが、高級路線を突っ走り始めたのはGMSが台頭してきてからだったという記事をどこかで見た気がする。それはでは良いものを程々の値段で売っていたのだろう。多分。

しかし程々の値段であれ、郊外から向かうとなると、往復の時間と交通費と程々の値段がかかってしまう。地元の店で手に入ればコストは最小限になるだろうものの、何でもかんでも一定程度以上のものが確実に手に入るなら困ることもあるまい。暮らしを維持する分には困らないがそれ以上になると街に出るというムーブメントがある程度はあったのではなかろうかと思う。そういう点では、百貨店は優位であり続けられたのだろう。

 

 

GMSが出来てから幾星霜。一定程度のクオリティが担保されたものは手軽に比較的近所で手に入るようになった。GMSも最近は専門店に押されがちというが、それもそうだろう。一定程度のクオリティを担保してくれてかつ低コストな店がほかに近所にあるならそちらを使う人も増えるというものだ。GMSや専門店はここ数十年ひたすら郊外化を進めていった。その集大成の一つが郊外の巨大ショッピングモールなのだろう。ショッピングモールというものは色々語られがちであるが、シンプルに近所で程々のクオリティのものが程々の価格で手に入る場所と考えれば、それは自然と繁盛するに決まっているというものだ。言ってしまえば、それが出来なければ徐々に寂れていき廃墟じみたモールになってしまうのだろう。

 

GMSが出来てからショッピングモールに発展している合間に、百貨店は高級化という方向性に舵を切って生き残りを図っていったらしい。程々のクオリティで程々のものが手に入る店は、結構なクオリティのものが結構な値段で手に入る店に変わり果ててしまったのかもしれない。多くの人々にとって、近所に程々のクオリティのものが程々の価格で手に入る場所が出来た現代において、結構なクオリティのものを結構な値段で手に入る場所に行く機会がどれ程出てくるのであろうか。

百貨店はごく一部の結構なクオリティのものを結構な値段で手に入れる人々を掴んだ店こそごっつ盛況だが、それ以外はあまりといった状況が続いているようにも思える。いつかまた、百貨店が幸せ売ってるみんなのデパートになってくれる日が来れば、劇的ではないものの見放されることもなくなるのではないかと思うところである。